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イタリア王国(ラテン語:Regnum Italiae または Regnum Italicum)は、ドイツ、ブルグントと共に神聖ローマ帝国を構成した王国である。ヴェネチア共和国を除く北部および中部イタリアから成る。11世紀まで首都はパヴィアとされた。 1000年以上の歴史を持つものの、その殆どの期間はカロリング帝国や神聖ローマ帝国の構成国としてのものであり、独立していたのは100年足らずであった。また、後半の約500年は国家としての形骸化が著しく、名目すら殆ど失われていた。 == 概要 == 773年、フランク王カルロ・マーニョは、アルプス山脈を越え、ランゴバルド王国に侵攻した。ランゴバルド王国はローマと南イタリアの東ローマ帝国領を除いたイタリアを領土としていた。774年6月、ランゴバルド王国は滅亡し、フランク王国が北イタリアの支配者となった。南イタリアはランゴバルド族の支配に留まった。カルロ・マーニョは自らランゴバルド王位を兼ね、800年にはローマにてローマ皇帝として戴冠された。781年、カルロ・マーニョはイタリアを息子のピピン(810年に死去)に譲った。818年にピピンの息子ベルナルドが死ぬと、イタリアはそのいとこであるロターリオ1世に渡った。カロリング朝はカルロ3世肥満王が887年に退位するまでイタリアを支配したが、その後にイタリアを取り戻したのは894年から896年の一度きりだった。961年までイタリア内外の諸侯が、イタリアの支配権を求めて争い続けた。 961年、先代イタリア王の未亡人であるアデライーデと結婚していたドイツ王オットー1世はイタリア王国に攻め込み、12月25日にパヴィアで自らイタリア王オットーネ1世として戴冠した。オットーネ1世はローマに進軍し、962年2月7日に皇帝として戴冠した。イタリア王国とドイツ王国は統合されて「ローマの帝国」と呼ばれ、神聖ローマ帝国が成立した。神聖ローマ帝国は1032年にはブルグント王国も統合した。神聖ローマ皇帝はこの時から殆どがイタリア王とドイツ王を兼ねた。しかし皇帝が指名した後継者に対して、イタリアの司教や貴族が自らの王を選ぶこともあった。神聖ローマ皇帝はイタリア王であるもののイタリアにいることは少なかったため、イタリアの中央政府は中世盛期に早くも消失した。しかしイタリアが帝国の中の王国であるという認識は残った。歴代皇帝はしばしばイタリアに進駐し、発展していく都市国家群に対して影響力を行使した。結果として、ゲルフ(教皇派、反皇帝派)とギベリン(皇帝派)の間で戦争が起こった。これは12世紀から14世紀におけるイタリアの政治の特徴であり、ロンバルディア同盟が最も有名な例である。ロンバルディア同盟は独立宣言こそ行わなかったものの、皇帝が主張するイタリア王としての権力へは明確に反抗した。 15世紀までに、都市国家群の権限は大幅に衰退した。1423年から1454年にロンバルディアで起こった一連の戦争によってイタリアに割拠していた領邦の数はさらに減っていった。続く40年は比較的平和だったものの、1494年にイタリア半島はフランス王国に侵略された。この結果1559年まで続く大イタリア戦争が勃発し、殆どのイタリア領邦はその支配権をスペイン王国のフェリペ2世に譲ることとなった。フェリペ2世のスペイン・ハプスブルク家は皇帝を世襲していたオーストリア・ハプスブルク家の同族である。スペイン・ハプスブルク家は1701年から1714年のスペイン継承戦争までイタリアを支配し続けた。 1495年から1512年、神聖ローマ帝国ではイタリア戦争と平行して帝国改造が実施された。帝国改造では帝国を10のクライスに分けて治安維持にあたることが決められたが、イタリア王国はアルプス以南の帝国クライス外の領域と位置づけられた。以後、皇帝は法的にのみイタリア王としての名目を保ち、イタリア王国の「政府」とはハプスブルク家領の代官と皇帝が派遣した大使の連絡網に過ぎなくなっていた。イタリアにおける皇帝の支配は1792年から1797年のフランス革命軍によって終わり、フランス革命政府の衛生国家が次々と建国された。1806年、アウステルリッツの戦いでナポレオンに敗北した最後の皇帝フランツ2世によって、神聖ローマ帝国は解体された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「イタリア王国 (中世)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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